勝海舟

揖保川病院 古橋 淳夫

平成30年は、明治元(1868)年から150年の節目にあたり、NHKの大河ドラマ「西郷どん」をはじめ、全国各地でも幕末や維新などを題材にした催し物が数多く開催された。
 その幕末に、多くの英傑が天下を揺るがす動乱を引き起こし、民主主義の時代をつくりあげたわけではあるが、未だに多くの真実が交錯しており、事実はベールに包まれている。
 歴史小説や歴史ドラマには文学的な要素が込められており、史実に沿わないものも数多くある。しかし、読者や視聴者が作家の持論による創作部分に踊らされていることに気づいていないのも事実であろう。歴史的事実がどうであったかを証明する足跡などの史料(証拠)が少ないため、歪曲された作家の創造が読者の心に根付くのも仕方のないことである。勿論、文学というのは作家独自の構想による倫理観が表現されたものであるから、枝葉末節にこだわる必要はない。
 一方、歴史学において証拠として示された史料が偽作であることも珍しくないという。その資料の真純性を調べた結果、新たな視点が見えてくることもある。

東照宮御遺訓

     「東照宮御遺訓」

     人の一生は重荷を負て遠き道をゆくかことし
     いそくへからす
     不自由を常とおもへは不足なし
     こころに望おこらは困窮したる時を思い出すへし
     堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ
     勝事はかり知てまくる事しらされは害
     其身二いたるおのれを責て人をせむるな
     及さるハ過ぎたるよりまされり
                       勝安房

上記は、勝海舟が揮毫(きごう)した書を原書の通り書き写したものである。
例えば、「及さるハ過ぎたるよりまされり」が孔子の『中庸』という書からの引用であるように、家康が儒教の教えを重んじた事が理解できる。
この御遺訓を座右の銘にしている人も多いと思われるが、いろいろな儒家の思想をこれほど凝縮したものは意外に少ない。皆さんには、ぜひ御遺訓のもつ意味を今一度学びなおして頂き、今の日本人に忘れられつつある精神性をしっかりと育んでいただきたい。
勝海舟は江戸生まれの幕末・明治を生きた政治家で、維新後は名を安芳と名乗り、通称は安房守(上書の右下)、海舟というのは号である。
この有名な東照宮御遺訓は、十数年前まで関ヶ原合戦の3年後の徳川家康63歳の時に書かれたものと言い伝えられ、現在まで尾張徳川家の名宝として名古屋の徳川美術館に大切に保管されている、と世間では認識されてきた。
ところが、平成19年に尾張徳川21代目の当主で、当時の徳川美術館の館長でもあった故徳川義宣氏が、本当は家康が書いたものではないという衝撃的な事実を発表した。実は、旧幕臣の池田松之助という人物が書いたものとされ、勝海舟や山岡鉄舟らとともに、明治維新後に失職した旧幕臣を励ますために創作して東照宮などに奉納したものである、と新聞で大きく報道されるなど世間では大変な驚きとなった。
海舟は、江戸っ子らしい軽妙洒脱の印象がつよいが、その一方、維新後に窮迫する旧幕臣たちの生活を助ける互助組織を周旋したことなど情誼(じょうぎ)に篤いことでも知られていた。
海舟たちは、徳川光圀が描いた「人の戒め」という教訓をもとに、この遺訓をつくりあげたという事であるが、家康自身そのような教訓を常々言っていたことも事実のようであり、まったくの贋作とも言い切れない。
さて、7年ほど前に私が徳川美術館を訪れた時、この東照宮御遺訓について同館の学芸員に質問したところ、同館にあるとされてきた現物が実際には所蔵されていないという驚きの返答であった。もちろんこの御遺訓の事については、「前館長の発表により、勝海舟がその文面の作製に深くかかわっていることに間違いはないと思います」等々詳しく解説して頂いた。
よく考えてみると、この徳川美術館は尾張徳川家伝来の歴史的にも貴重な多くの什宝(じゅうほう)を財団に寄付する形で発足したわけであるから、幕末に作られた御遺訓は徳川美術館になくてあたりまえである。

過日、幕末に関するテレビ番組で、徳川慶喜の末裔という徳川何某が、勝海舟の揮毫した掛け軸を家宝として大切に保管しているという話をして、番組内でその実物も詳しく紹介していた。
半藤一利の『それからの海舟』にも、慶応4(1868)年4月11日(新暦)の江戸城無血開城前夜に慶喜公が涙とともに書いた東照宮御遺訓を床の間に飾り云々とあるので、やはり慶喜も承知の上で海舟や鉄舟たちとともに、いくつか筆を執ったのであろう。
その後、再び海舟の書を目の当たりにした。
私は、彼らの創った御遺訓に込められた当時の複雑な思いなどに肺腑を衝かれ、想像をかきたてられた。小説を通してではなく、実際にこの目で幕末・維新という激動の時代に生きた海舟の懊悩(おうのう)がこめられた書でもあると思うと、胸に熱く迫るものがあった。
勝海舟は、辞世の句として「これでおしまい」と書いたことで有名であるが、その他にも多くの名言を残しており、そのひとつひとつがとても興味深い。
明治の教育者でジャーナリストでもあった巌本善治が、明治20(1887)年頃から海舟の面識を得て、海舟の数多くの名言を書き留める作業を行った。結果として非常に価値の高い歴史的証言としての『海舟語録』が現代に残されたわけであるが、語録には多くの問題があったと指摘する人もいる。いずれにせよ、毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)の多い勝海舟がいなければ、西郷隆盛や坂本龍馬もあそこまでの働きはできなかったと思う。
ある日、友人が勝海舟の書を見せてくれた。

「人真実有命不可以僥倖易其守」

と書いてある。
この言葉は、明治21(1888)年、海舟が66歳の時に揮毫している。私なりに調べてはみたが、『海舟語録』にこの言葉は載っておらず、このように実際は世に出ないものもあるのであろう。
海舟は、この書を揮毫した明治21年に枢密院顧問官に就任している。当時の枢密院は伊藤博文を議長として、日本赤十字社の創設者でもある佐野常民もそのメンバーに名を連ねている。佐野常民(佐野栄寿)は、佐賀藩医佐野家へ養子に入り、23歳で緒方洪庵の適塾に約半年間在籍した。この時、医師でありながら数奇な運命をたどった大村益次郎ほか、明治維新で活躍する多くの人材と知り合ったとされる。
余談になるが、この適塾は緒方洪庵が長崎での勉学を終えた29歳のとき、大坂船場瓦町に値ごろな家を借りて医業の場と蘭学学問所として始めたものである。すぐに、洪庵の学才や人柄を知った若者が集い住むようになった。塾生であった福沢諭吉が、当時は医師塾で政治談はあまりはやらなかったと語ったように、洪庵は終生医学の人であった。
事実、塾生の多くは医家の出身であり、西洋医学を学ぶためにやってきていたのである。適塾は今の大学に匹敵する学塾で、医業を営む以外に化学実験や処刑された罪人の解剖実習を刑場などで行っていたという。
その当時、大坂では相撲の番付に見立てて、開業医のランク付け「医師番付」という刷り物が作られていた。薬種業者の作成したものであるが、当然洪庵は最高位の西の大関(横綱はなかった)に上りつめ、大坂医学界の重鎮のひとりとして役付きにもなった。郷里である足守(現在の岡山市北区)の両親にその番付を送るという近況報告で、両親をとても喜ばせたという。
平成29年、ある本に現代は優秀な学生が医学部に進学する傾向が強くなっており、その結果の人材不足で政治や経済を志す優秀な学生が少なくなったと書いた人がいた。海舟は当時、徳川幕府で政治家と呼べるのは本多正信くらいだと言ったように、優秀な政治家は今も昔も本当に少ないのであろうか。
医学の人・洪庵が作った適塾ではあるが、医学を目指す人間の中から後の明治維新などにも活躍する政治家や軍人が数多く輩出されたことはとても興味深く、優秀な生徒が医学部に進学する現代とどこか共通するところがあるようにも思える。
上記の書には「人の真実に命(めい)あり僥倖(ぎょうこう)をもって其(そ)の守りを易(こ)うべからず」とある。
真実とは、科学者の目で言う客観であるが、実は他人の視線に依らない本人の心の中身という意味もある。また真実は複数あるが、事実はひとつしかないというように、真実というのは人によっても認識が異なる。それは、真実が信念や信義と関連するように人の評価を伴うからである。
人というのは、真実を見失いやすいものである。偶然物事がうまく運んだのは、その人の定め(運命)であり、それが己の力であると過信してはいけないという意味であろう。「勝って兜の緒を締めよ」というように、うまく事が運んだからと言って気を緩めることのないよう諭した先賢の名言のひとつである。
現代人は、平和な世の中に長い間どっぷりと浸かりすぎて、社会やマスコミの影響により表面的なことに振り回されやすく、目先の些細なことに執着する傾向がより強くなっているように思う。
今一度、先賢に学びながら己を見つめ直し、兜の緒をしっかり締め直す時期にきているような気がする。

2023年8月28日

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