ふたりの細菌学者

揖保川病院 古橋 淳夫

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、2019年12月に中華人民共和国の湖北省武漢市において確認された。その後、世界的な感染拡大の状況や重症度等から、3月11日に世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス感染症をパンデミック(世界的な大流行)とみなせると表明した。COVID-19は、これからの世界経済に及ぼす景況も計り知れない程の深刻な生物学的自然災害といえる。

 人類の過去には、COVID-19のように世界を震撼させた感染症が数多くあり、「死の病気」と言われるペストもその一つである。そのペストの日本拡散を防いだ偉大な功労者が北里柴三郎であり、世界的な細菌学者のひとりでもあった。
 北里は、ドイツのベルリン大学で「近代細菌学の開祖」と称されるローベルト・コッホの研究室で貴重な研究業績をつぎつぎに発表した。とりわけ、破傷風菌の純粋培養法の確立と血清療法の発見は前人未到のもので、その研究は後に日本人で初めて第1回ノーベル生理学・医学賞の候補にノミネートされたほどである。

 明治25(1892)年、北里がドイツより帰国した後、伝染病のまん延する当時の日本の衛生状態を憂慮し、福沢諭吉の援助によりわが国で最初の伝染病研究所(私立、現在の東京大学医科学研究所)を創設した。同所が明治32(1899)年に内務省に移管(寄付)した後も所長として活躍した。この間、香港で流行したペストの調査に出張して、短時日でペスト菌を発見したのである。

 その頃、北里は伝染病の研究は衛生行政と表裏一体でなければならないと考え、国立伝染病研究所が内務省所管であるべきとの信念をもって伝染病の研究所の運営にあたっていた。ところが大正3(1914)年、北里に事前の打診もなく、突如国立伝染病研究所は文部省に移管されることになった。北里は素志に反する政府のやり方に承服できず、所長を辞して直ちに私費で北里研究所を設立した。同研究所は狂犬病をはじめ、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだのであるが、それが現在の北里大学の源流である。

 そのような時代の潮流のなか、明治31(1898)年4月、22歳の野口英世は北里研究所に在籍した時期があり、形式上北里とは師弟関係にあったという事実はあまり知られていない。

 千円札の肖像にもなった細菌学者の野口英世は、1歳の時に囲炉裏(いろり)に落ち、左手に大火傷を負った。16歳の時、募金で不自由な左手の手術を受けて治ったことがきっかけで、より医師を志したと伝えられている。後に、北里を上回る3回のノーベル生理学・医学賞候補に上がったほどで、世界中で最も多い日本人の銅像が野口であるとも言われている。
 しかし、天才の野口英世には放蕩(ほうとう)という別の顔もあった。学業資金として借りたお金で豪遊しては借金を重ねるということを繰り返し、挙句の果てに食い逃げまでしたという話まで残っている。ちなみに、野口が22歳の時、坪内逍遥の『当世書生気質』という本を読んだ。

 田舎出の医学生が遊郭の遊びに自堕落していくというこの物語の主人公の名前が野々口清作で、当時の野口は英世ではなく清作という名前であった。この本の内容が自分に酷似していたことで、野口自身がそのモデルにされたと思い込み、野口清作から野口英世に改名したと言われる。

 改名の2年後(明治33[1900]年)にアメリカへの留学の道が開ける。
 野口の将来性を見込んだ資産家の娘・斎藤ます子との婚約を機に、借り受けたお金に加え、友人たちが苦労して集めたアメリカへ留学の費用合わせて500円(現代の価値で約1,900万円程度)を集めたまではよかった。ところが渡米前の送別会で蕩尽(とうじん)してしまったのである。

 そもそも野口は、婚約者の斎藤の顔が醜く、学もないと嫌っていたといわれている。そのことが関係しているかどうかはわからないが、自らが開いた渡米のための送別会の会場には、高級料亭として名高い「神風楼」を使った。そして、飲んだ挙句に芸者を呼んでの大騒ぎとなり、その渡航費用のすべてを一晩で浪費したという。そのため、再び知人に泣きつくという顛末で、その知人が高利貸から借りた渡航費用300円については、浪費しないよう渡航直前に手渡したとされ、かろうじて野口は渡航できたのである。

 せっかく、養子になる等の苦労の後に清作から英世へと戸籍名を改名したにもかかわらず、昔からの放蕩癖が改まることはなかった。その後も婚約者への無心が続き、渡米5年後に縁談は破談となったが、野口にしては珍しく借金を返済している。渡米後も同様の金銭トラブルをおこしたのであろうか、アメリカでも周囲より金を貸してはいけない人であるというレッテルが貼られていたという。

 渡米後にロックフェラー医学研究所の助手に抜擢され、その最初の研究がわれわれの精神科医療にも関わりの深い進行麻痺(神経梅毒)であった。不眠不休で顕微鏡をのぞきながら、毎日数百枚の切片を丹念に見極め、やがて脳内に梅毒菌を見つけたのである。ひたすら顕微鏡と向き合うという気が遠くなるような根気のいる作業をひたすら続ける姿をみて、周囲の研究者は驚き、まるで人間発電機のようであると話したという。

 そのような二面性をもつ野口がアスペルガー症候群であるいう医師もいるようではあるが、遊蕩やその穴埋めの配慮もないところが野口の個性だとすれば、たしかに発達障害と見えなくもない。
 実際に昔から時代を切り開いた天才といわれる人たちには、なんらかの発達障害が多かったというのも事実のようである。

 野口が34歳時、ニューヨークのレストランで意気投合したといわれるメリー・ロレッタ・ダージスと結婚した。この年、京都帝国大学病理学教室に論文を提出して医学博士の学位を授与されている。世界的な学者としての野口が酒場勤めで気の荒い酒豪のメリーと、研究所仲間には秘密裏に結婚していたというのも興味深いことではある。
 そのような数々の逸話を後世に残した偉人・野口英世の名言のひとつに、

『人生最大の幸福は、一家の和楽である。』

がある。
 野口は結婚後のアフリカへ出張中にも妻メリーに愛を込めた電報などをたびたび送っていたという記録が残っており、研究に没頭する執念とは異なる妻思いの優しい一面を見ることができる。

 一方、北里柴三郎は野口と対照的な人物であろう。北里は強い信念を持ち、権力にも屈しない頑強な人物とされ、そのために周囲と衝突することも多かったという。その激しい気性の北里を擁護したのは、福沢諭吉と長与専斎という人物である。長与専斎は日本で「衛生」という訳語を最初に採用した人であるが、福沢と同じく緒方洪庵設立の蘭学の私塾「適塾」出身者だった。

 北里は東京医学校(現在の東京大学医学部)を卒業後、その長与が局長を務める内務省衛生局(現在の厚生労働省の前身)に就職したが、実は福沢と長与は適塾以来の親友でもあった。適塾では長与が福沢の後任の塾頭にもなっていることから、そのふたりと北里も何か深い縁があったと思われる。

 余談になるが、日本の近代化に大きく影響を及ぼした適塾について、諭吉は「塾風は不規則といわんか、不整頓といわんか、乱暴狼藉である」と述べている(『福翁自伝』)。そして万引きをしたり、役人に化けて芝居をタダで見物したりと彼らの勝手気ままな振る舞いに市中の顰蹙(ひんしゅく)を買うことも多かったという。当の本人諭吉ですら、夏は下帯(ふんどし)もつけずにいることが多く、ある時に塾で誰かに呼ばれて行ったところ、その声の主が洪庵夫人であったため、諭吉はそこで進退が窮まったという逸話もある。

 さて、北里は貴族院議員になった65歳の時、その福沢諭吉の恩義にこたえるため慶應義塾大学に医学科(現在は医学部)を創設し、その初代の医学科長とその付属病院長を兼任した。70歳の時には「日本医師会」を創設し、その初代会長に就任したことを知らない現代の医師も多い。
 北里は「日本の細菌学の父」といわれ、ドンネル先生(「雷おやじ」の意味)と畏(おそ)れられ、開拓精神が旺盛であるため英知と実践の人と考えられてきた。講演では「医者という地位について勉強せず、自分の生計を目あてに病気を治すことで満足する者がいる」と話すなど医道論を力説する不撓不屈の精神の人という印象が強い。
 さて、ここに北里の揮毫(きごう)した一文がある。

『一家の繁栄は和睦に在り』

 これは亡くなる前年の昭和5(1930)年、77歳の時に書かれたものである。一般的に考えられている北里は、巍然(ぎぜん)として動かすべからざる気節をもっていたようであるが、この言葉の印象からは少し違う一面があるように見える。
 北里は自身の研究への情熱と同様に、「人と交わり世に処するには正直であれ、 忠実であれ、約束した事は必ず実行せよ」 と人間関係について説いた訓(おし)えもあり、単に気難しい「雷おやじ」ではないようにも見える。そしてこの一文には、普段から家族を大切にすることに重きをおき、親しみをもって仲良くするという和睦こそが家族を真の幸せに導き、子孫に繁栄をもたらす礎になると説いたのであろう。

 この北里と野口の二人の名言にある「一家の和睦」と「一家の和楽」であるが、その思いに大きな差異はないだろう。
 日本を代表する二人の細菌学者の共通点が語られることは、現在までほとんどなかったが、先に紹介したそれぞれの言葉から、意外にも彼らが家族を大切に思い続けてきたという共通点が見えてくる。

 細菌学者としての素晴らしい業績だけを見るのではなく、実は彼らが人間愛や家族愛を胸に秘めながら精神性を育んできたことが、結果として偉大な業績につながったということにも目を向けなければならない。

2023年4月7日

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