揖保川病院 古橋 淳夫

老君出関(老子)

中国の湖北省武漢で最初に確認された新型コロナウイルスの感染者が発症したとされる日から約3年が経過した。そのコロナ禍という天災に終息の希望が見え始めた今年2月、ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まった。メディアは軍事的な手段で領地に侵入する意味で「侵攻」という穏やかな表現を使っているが、今回のロシアの目的は旧ソ連時代の自分の領土を奪い取ることであり、まさに「侵略」が適切な表現である。ウクライナの罪もない老若男女を盾にして、数多くの西側の国々が様々な応援を繰り広げている合戦を戦争と言わずして何を戦争というのだろうか。

この戦犯の主役ウラジーミル・プーチンの重病説が某紙に書かれていたが、以前よりパーキンソン病を発症していたことは有名である。主要な会議で、自分の意思で抑えることのできない粗大な手の震えを片方の手で押さえたり、震える右手でひじ置きを強く握りしめたりする光景など、関係者の間では珍しいことではなかったという。最近のテレビ映像を見る限り、右上肢のぎこちない動き以外に明らかな手指の振戦などの症状も顕著ではないということは、その治療経過が比較的良好ということかもしれない。

しかし、日本を訪問した時のような柔らかい表情が影を潜めているのは明らかで、ウクライナ侵略の計画が思惑通り進んでいない苛立ちが表情に出ているかもしれない。しかし、パーキンソン病特有の硬く無表情な仮面様顔貌のように見えなくもない。

また、甲状腺がんを発症していることをフジテレビのある番組の出演者が公言していたが、パーキンソン病と甲状腺疾患のいずれもが精神状態に大きな影響を与えるのは周知のことである。このパーキンソン病に関係の深い病気にレビー小体型認知症がある。パーキンソン病とアルツハイマー病を合併した病気のことで、日本の小阪健司先生と英国のイアン・G・マッキース博士がレビー小体型認知症という新たな疾患単位として提唱した。しかし、両国以外の国々では、神経病理学的にも新たな疾患とは認めがたいと冷ややかな目で見られていたことは意外に知られていない。

からだの病気から脳の機能が二次的な障害として起こる病気を器質性精神障害といい、主たる症状は抑うつ、不安、幻覚妄想状態、認知機能の低下に加えて人格の変化もあるとされている。プーチンの心、すなわち脳の状態がパーキンソン病と甲状腺がんに侵された器質性精神障害の影響かどうかはわからないが、これから苦悩に満ちた厳しい行く末になることは疑いようがない。

この世の中には神経難病であるパーキンソン病で苦しみながら療養生活を余儀なくされている多くの人がいる。しかし、今回のプーチンの病理が引き起こした戦争がもとで、後にパーキンソン病など神経難病の患者さんが偏見や差別の対象にされないかという不安もある。

ところで、心で思い出すのが「心清者福也」という印象深い言葉を揮毫した新渡戸稲造のことである。新渡戸は、日本で最初の国際人として多分野で多くの業績を残し、5千円札に印刷されたことでも有名である。

新渡戸が揮毫した「心清きものは福(さいわい)なり」という言葉は、『新約聖書』の「馬太(マタイ)伝福音書」第5章にあるというが、敬虔なキリスト教徒として知られる新渡戸の人柄が映える言葉でもある。

わが国が大日本帝国という国号の時代、つまり明治時代から第2次世界大戦後までの間の日本では宗教教育が禁止されていたが、その頃すでに宗教教育をしなくても精神性を育む土壌が日本には存在しており、その育むものの一つが武士の教育の中にもあったといい、その武士の心を表現したものが新渡戸稲造の『武士道』という有名な著書である。

明治時代までの日本は、西欧からハラキリなど野蛮で未開の国とみられてきたが、そのように誤解されてきた日本人への偏見をくつがえし、精神的にもレベルの高い倫理観をもった国であると武士道のなかで解説して世界に伝えたことは素晴らしい業績である。

新渡戸は札幌農学校(現・北海道大学)に入学後、クラーク博士の影響もありキリスト教に入信したという。その後東京帝国大学に入学したが、そのレベルの低さに失望するほど向学心が強い人でもあった。

名著『武士道』が英文で書き上げられたのは、日清戦争の勝利などで世界が日本および日本人に対する関心が高まっていた時期でもあり、1900(明治33)年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。

新渡戸はアメリカやドイツにも留学経験があり、帰国後に第一高等学校(現・東京大学教養学部)校長、東京帝国大学教授、京都帝国大学教授などを歴任し、東京女子大学の創設にも尽力して学長にも就任した。そして、1920(大正9)年の国際連盟設立に際して、教育者であり『武士道』の著者としても国際的に高名な新渡戸が事務次長に選任されたのである。

『武士道』には、日本の標章である桜が薔薇の花と対比して紹介されている。桜は日本の国花であり、古来よりさまざまな名歌に読まれ、日本の象徴とされてきた。武士道では、その桜の花に勝るとも劣らない精神性が武士の心に根付いていると紹介されている。

西欧で人気の薔薇の花は、鮮やかな濃い色彩で濃厚な香りを放つが、その美しさの下にトゲを隠し持ち、朽ち果てる時には生きることに執着するがごとく、花びらを枝のうえにさらして落ちようとしないと表現している。

一方、桜は淡い色彩とほのかな香りで、美しさの下にトゲも持たず、花びらの散る際の潔さと美しさは、死をもろともしない武士道の精神そのものであるとしている。近年、このような潔い日本人の精神性が薄らいできたように見えるのは私だけであろうか。

日本には、武士道をはじめ茶道、剣道、書道など「道」の付く言葉が非常に多く、その道を究めながら精神的な修養をすすめていく文化が古来より育まれてきた。

しかし、欧米にいわゆる「道」という概念はあまりないようにみえる。英国の著名な哲学者ハーバード・スペンサーは、およそ何かをしようとするなら、それをするための最良の道が存在するはずであるといい、『自然選択説』(1864年刊)の中で「その最良の道は優雅で効率的・経済的な道である」と、論理的な内容に終始している日本における「道」の概念とはかけ離れたものであり、古来の日本人のような視点ではみていないのである。

それでは、人間の眼から実際に見ることのできない「道」とは、果たしていかなるものであろうか。

徳川家康の遺した言葉を後に勝海舟たちが編集したという『東照宮御遺訓』の冒頭は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という道をあらわした一節から始まる。これも道教を学んだ家康が自らの苦悩の経験をもとに話をしてきたものと思われる。

中国哲学における「道(みち・タオ)」は、どのように生きるかという人の生き方や人生を指すもっとも古い概念である。道家によって説かれた「道」を考えるに誰もが思い浮かべるのは、老子であろう。老子は、中国春秋時代における哲学者で、無欲で物事に執着しない無為の説を奉じたが、その生涯があまり良く解っておらず、実在しなかったという説もある。

中国には、中国三大宗教、儒教・仏教・道教があり、老子の道教以外にも孔孟思想の孔子の儒教などが世界的に有名である。このような高名な多くの思想家が存在したのは大きな理由があるという。昔から中国という国には、精神性の育まれる環境に乏しく、そのため数多くの思想家や哲学者が次々に出現して説いてまわったという。

中国も近年の著しい経済成長で豊かになったところまでは順調と言えるが、このところ侵略戦争を意識した軍事的な動きが非常に活発化していることをみると、指導者たちには「論語読みの論語知らず」という孔子の言葉をただ知識として持っているに過ぎない人が増えてきたようにみえなくもない。

さて、老子と言えば、大青牛(だいせいぎゅう)に乗っている姿が有名である。この中国古代神話にでてくる青牛という牛のような生き物に乗ることにより老子が神格化されたようである。その昔、周の役人であった老子は、自国が衰えるのを憂いて身を隠すため中国河南省にある函谷関という関所を越えようとしたが、その時に関所の役人の求めに応じて書物『老子』を遺し、その後仙人になったと伝えられてきた。

この函谷関を越える姿を描いた「老君出関」は、中国画や日本画において、古来有名な画家がしばしば取り上げてきた題材でもある。白髪、白眉、白髭、白髯をたくわえ、払子(ほっす)を手に青牛の背に乗っている老子であるが、今回お見せした老子は何故か逆にまたがって後ろ向きに座っている。これは、今までの道中を振り返るとともに、昔の周の時代への様々な懐旧の思いを募らせているように見える。

この後ろ向きに座るということが、新渡戸の『武士道』の中に少し触れられている。

『武士道』の「敗者に対する仁」の心の項に、「一人の僧が後ろ向きに牛の背に乗っている絵を知っているだろう。この僧は、かつてはその名前が恐るべきものの代名詞ともなっていたほどの荒武者であった」と書いてある。しかし、敗者に対する仁の心と大青牛に乗る老子との関係性はなかなか見えてこない。

この「荒武者」が、須磨の浦の激戦(1184年)で活躍し、後に僧侶となったのが熊谷直実である。日本の歴史上、重要な合戦の一つである源平の戦いで、源氏方の直実は一人の敵を追いかけ、一騎打ちの後にわが子くらいの年齢の若武者を組み伏せたという。その立ち振る舞いの凛とした若武者は自分の子供と同じ年ごろに見えたようであるが、躊躇しながらも結局その美少年の首を刎ねた。身元を確認すると17歳の平敦盛であったという。これは能の演目「敦盛」にも取り上げられている。その後、荒武者の直実は出家への思いを募らせ、ついに出家して法然上人の弟子となり、蓮生法師として京都府長岡京市に光明寺を創建したのである。

東行逆馬(熊谷直実)

蓮生が京都に出向いたのち関東に戻る時、西を背にすると西方におられる浄土の阿弥陀仏さまに背を向けることになると言って、馬の鞍を前後逆さまに置いて、西に背を向けずに馬に座り関東に下ったという有名な話が新渡戸のいう仁の話であり、これが熊谷直実の「東行逆馬」という伝説になっている。

直実は、一ノ谷の戦いで若き平敦盛の首を取った悔恨以来、「行住座臥、西方に背を向けず」と西に背を向けることがなかったというが、この老子画の場面において、西方を背にしないという意図はなんとも理解しがたく、直実の仏教感との共通点もみえてこない。私には老子がしばらく滞在して、後世に残る書物を書き上げた函谷関を懐かしみ、別れを惜しむ姿のようにしか見えない。

老子はこの函谷関で道徳、無為の治から人生や社会についての考えを『道徳経』として書き上げたとされている。そこでは、生命の重要性を説く反戦・平和の思想も主張されており、現代人とりわけ指導者にとっては重要な典籍といえる。

現代は人を不幸に陥れる様々な悪行の報道が後を絶たず、医療の分野でも金銭目的のランサムウェアの被害が増えてきたという。まことに残念な世の中である。病院は、病気を治して人に元の幸せを取り戻す神聖な現場であるにも関わらず、その病院を陥れる悪人(たいてい本人は自分がそれほど悪人と思っていない)が増えてきた。社会の問題点の奥にある精神性に、社会はしっかり目を向ける必要があると思う。

人は目に見える表面的なものに心を奪われやすいものであるが、そのようなものから真の道は見えてこない。

人を幸福に導く相互の信頼や親睦の醸成の重要性が希薄になりつつある世の中に、自らが存在することの虚しさを思いながら、老子のような真の道を説く人物が出現してほしいものだと心から願っている。

2022年11月8日

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